4年ほど前だったか、OECD(経済開発協力機構)が日本の経済政策に対する提言をまとめた対日経済審査報告を発表したことがある。私が覚えているのは、OECDがわが国の貧困層の増大に懸念を表明していたことだ。
検索してみると、当時の記事に行き当たる。それによれば、わが国では、可処分所得が中位置の半分に満たない人々の割合(相対的貧困層)が2000年段階 で13.5%に達している。で、この数字はOECDに加盟する30カ国中、米国の13.7%に次ぐ高さだということになっている
この報告書については、後に色々と賛否やら反論(統計の数字が恣意的だとかなんとか)があって、必ずしも鵜呑みにできるものではないようだ。が、ともかく、小泉政権以降、わが国において経済格差が拡大したことはある程度までは事実だ。
というのも、小泉政権は、格差を容認していたからだ。
小泉さん自身、当時の答弁で、「格差はあるが、それがただちにいけないということではない」という意味のことを繰り返し述べている。
言いたいことはわかる。社会が社会である以上、格差がゼロということにはならない。結果平等が悪平等につながる事情だってある。そう思えば、彼の答弁自体に問題はないのだろう。
小泉改革の問題は、格差を容認したところにはない。
容認しただけのことなら、ずっと昔から続いていた自民党政権の時代と変わらない。というよりも、いまだかつて、どこの世界のどの国の政府であっても、格差を容認しなかった社会は存在しない。共産主義を標榜する政権にとってさえ、格差は自明の前提だった。
思うに、小泉さんおよびその周辺の経済人の問題は、格差を「賛美」したところにある。
そう。容認でも黙認でもない。賛美、ないしは奨励だ。
あの人の論調にはいつも競争と勝ち負けが人間の意欲を後押しするという無邪気な思想があった。
小泉政権で経済閣僚を勤めた竹中平蔵氏も同じようなことを言っている。
「競争が進むとみんなが豊かになって行く」
と。なるほど。
竹中さんの発言が、原理として間違っていると言うつもりはない。
実際に競争が人間を労働に駆り立てているのは事実だし、その競争の前提には格差の存在がある。あたりまえの話だ。
が、同じ競争でも「もっと豊かになるために、もっと頑張ろう」と思うタイプの前向きの競争と「うかうかしてるとホームレスになっちまうぞ」という恐怖に駆られた形の、追い立てられる競争は、全く別のものだ。
気分の問題と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、私は、小泉改革以来、競争の基調低音が希望から、恐怖に切り替わったのだと思っている。セーフティーネットの下の奈落に落ちる恐怖。これはキツい。特に若い者にとっては地獄だと思う。
- バーベキューという名の格差:日経ビジネスオンライン (via boosted)