フランスの免疫学者ジャック・ベンベニスト(Jacques Benveniste)は分子が一つもなくなるレベルにまで希釈した抗体溶液(つまり、ただの水!*1 )が白血球に作用して脱顆粒という現象を誘発するとする論文を発表した*2。この論文は、同様の極端に希釈した溶液を治療に用いる*3ホメオパシーを裏付ける実験結果として発表されたが、後の詳細な調査でこの実験結果は幻であったと結論づけられた*4 *5。
なお、この業績によりベンベニストは面白おかしい研究に与えられるノーベル賞のパロディー、イグノーベル賞の第一回化学賞を受賞している*6。
ベンベニストの論文の掲載先は、一流の科学雑誌Natureだった。このNature誌にこのような胡散臭い論文が掲載されたことに対しては それなりの反響があったようで、その一部は同誌の誌面でも紹介されている。寄せられた投書の内容は、論文を通してしまった編集部を批判するもの、冷静に実 験方法の問題点を指摘するもの、はたまた ホメオパシー支持者からのトンチンカンな援護射撃などと様々だが、最後は以下のような小洒落たコメントで締めくくられていた。
SIR—-The paper demonstrating that dilutions of anti-IgE must be vortexed rather than stirred in order to retain an imprint of the antibody on the solvent elucidates another long-standing question: how James Bond could distinguish Martinis that had been shaken or stirred.
A. NISONOFF
Rosenstiel Research Center,
Brandeis University,
Waltham, Massachusetts 02254-9110,
USA
(引用元: Nature 334, 285 (1988))
“この論文は溶媒が抗IgE抗体を記憶するためには、この抗体が stir(撹拌)ではなくてvortex(振盪)されなければいけないということを示したわけですが、おかげで別の積年の疑問が解決しました。それは ジェームズ・ボンドがどうしてshakeされたMartinisとstirされたMartinisを区別できたのかという疑問です。”
ここで言うMartinisとは、有名なスパイ小説・映画の主人公 ジェームズ・ボンドがよく注文するカクテルのことで、これをバーテンダーに頼むときの彼の決め台詞が”Shaken, not stirred” ( stirせずにshakeして ) らしい。また、ベンベニストの論文では希釈液を作製する際にピペットを用いて混合した場合はホメオパシー的効果が現れず、強く混和(具体的には vortex)した場合に効果が現れたと確かに書かれている。
つまり、この投書をしたNISONOFF氏の論旨は超意訳すれば、
stirだろうとshakeだろうと混ぜることには変わりないのに、ボンドという男はどうしてこんな細かい注文をするのかと昔から思っていたんだ。けど、ベンベニストの論文のおかげで謎が解けたよ。
ボンドはカクテルのホメオパシー的な違いが分かる男だったのさ HAHAHA!
とアメリカンジョークをかましてくれたわけだ。
実は奥が深い “shaken, not stirred”
ネタにマジレスするとベンベニストの実験結果は結局幻だったわけだし、そもそもカクテルは超希釈されているわけでもないので、ホメオパシー的な違いが生じるはずもない。では、非ホメオパシー的な違いはどうなのかというと、これをきちんと検証した論文が存在する。
有名な医学雑誌BMJ*7には、ずばり“Shaken, not stirred: bioanalytical study of the antioxidant activities of martinis”と題した論文が掲載されている。
Abstract
Background: Moderate consumption of alcoholic drinks seems to reduce the risks of developing cardiovascular disease, stroke, and cataracts, perhaps through antioxidant actions of their alcohol, flavonoid, or polyphenol contents. “Shaken, not stirred” routinely identifies the way the famous secret agent James Bond requires his martinis.
Objectives: As Mr Bond is not afflicted by cataracts or cardiovascular disease, an investigation was conducted to determine whether the mode of preparing martinis has an influence on their antioxidant capacity.
Design: Stirred and shaken martinis were assayed for their ability to quench luminescence by a luminescent procedure in which hydrogen peroxide reacts with luminol bound to albumin. Student’s t test was used for statistical analysis.
(引用元: C. C. Trevithick, et al. , BMJ 319, 1600 (1999). http://www.bmj.com/content/319/7225/1600.full)
“背景: 適度の飲酒は、心血管疾患及び脳卒中、白内障の発症のリスクを低減すると見られており、これはおそらくはアルコールやフラボノイド、ポリフェノール成分の 作用によるものだ。“Shaken, not stirred”というセリフは有名な諜報部員ジェームズ・ボンドがマティーニを注文するときの常套句である。
目的: ボンド氏は白内障や心血管疾患を患ってはいないので、このマティーニの製法がその抗酸化能力に影響を与えるか否かを判断することを目的に調査を行った。
方法: 過酸化水素とアルブミン結合ルミノールの反応を利用した発光法を用い、stirされたマティーニとshakeされたマティーニがその発光を弱める能力を測定した。統計解析にはStudentのT検定を用いた。”
つまり、この論文の著者らは、ボンドが健康の秘訣は彼の独自のマティーニにあるのではないかとする仮説に立てて、マティーニを作るときの混合 の方法がstirの場合とshakeの場合でマティーニの抗酸化力がどう変化するかを測定し、この仮説を抗酸化力による病気予防の観点から検証しようと考 えたわけだ。
この実験の結果は以下のように要約されている。
Results: Shaken martinis were more effective in deactivating hydrogen peroxide than the stirred variety, and both were more effective than gin or vermouth alone (0.072% of peroxide control for shaken martini, 0.157% for stirred v 58.3% for gin and 1.90% for vermouth). The reason for this is not clear, but it may well not involve the facile oxidation of reactive martini components: control martinis through which either oxygen or nitrogen was bubbled did not differ in their ability to deactivate hydrogen peroxide (0.061% v 0.057%) and did not differ from the shaken martini. Moreover, preliminary experiments indicate that martinis are less well endowed with polyphenols than Sauvignon white wine or Scotch whisky (0.056 mmol/l (catechin equivalents) shaken, 0.060 mmol/l stirred v 0.592 mmol/l wine, 0.575 mmol/l whisky).
Conclusions: 007’s profound state of health may be due, at least in part, to compliant bartenders.
(引用元: C. C. Trevithick, et al. , BMJ 319, 1600 (1999). http://www.bmj.com/content/319/7225/1600.full)
“結果: Shakeされたマティーニはstirされたものと比べ、より効果的に過酸化水素を不活性化した。どちらの混合の方法であっても、ジン単独・ベルモット単 独の場合と比べて効果的だった。この理由は明確ではないが、単にマティーニ中の反応性成分の酸化によるものではないようだ。:対照実験で、それぞれ酸素と 窒素の気泡を吹き込んだマティーニの間には、過酸化水素を不活性化する能力に差は見られず、その能力はshakeされたマティーニとも差がなかった。さら に、予備実験ではマティーニが、ソーヴィニョン白ワインやスコッチウィスキーよりもポリフェノールに乏しいことが示された。
結論: 007の健康は、少なくとも部分的には、彼のオーダーに従順なバーテンダーのおかげかもしれない。”
それだけでは終わらない”shaken, not stirred”
BMJのウェブサイトには、この論文に対して寄せられたコメントが掲載されている。最初についたコメントは以下のようなものだ。
A Bond Impersonator?
* Kathleen O’Malley
Medscape, Inc.
I greatly enjoyed Trevithick et al.’s eye-opening study of martinis, but it seems that the researchers have been fooled by an imposter. The real James Bond always drank vodka martinis, never the traditional gin martini. That’s just the sort of mistake I’d expect from a SMERSH agent trying to impersonate Bond: ordering the obvious “British” martini instead of the idiosyncratic, worldly vodka cocktail.
(引用元: http://www.bmj.com/content/319/7225/1600.full/reply#bmj_el_5939)
“Trevithickらによるマティーニに関する驚くべき研究は、私 たちを大いに楽しませてくれました。しかし、著者らは偽者に騙されていたようです。本物のジェームズ・ボンドがいつも飲んでいるのは、ウォッカ・マティー ニであって伝統的なジン・マティーニではありません。これはボンドになりすましたスメルシ(訳注:ソ連の対スパイ機関)の工作員の仕業でしょう。風変わり で俗っぽいウォッカのカクテルではなく、あからさまに「英国式」のマティーニを頼むなんて。”
つまり、AAで表現すれば、
ル! { `ヽ, ∧
N { l ` ,、 i _|\/ ∨ ∨
ゝヽ _„ィjjハ、 | \
`ニr‐tミ-rr‐tュ<≧rヘ > 著者らはボンドを騙るソ連の工作員に
{___,リ ヽ二´ノ }ソ ∠ まんまと騙されていたんだよ!!!
’、 `,-_-ュ u /| ∠
ヽ`┴ ‘ //l\ |/\∧ /
—─‐ァ’| `ニ—‐’´ / |`ー ..__ `´
く__レ1;’;’;’;>、 / __ | ,=、 ___
「 ∧ 7;’;’;’| ヽ/ _,|‐、|」 |L..! {L..l ))
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ということだ。
調べてみると、確かにボンドが好むマティーニはウォッカ・マティーニであり、実際のセリフは”Vodka Martini,Shaken,not stirred”だったようだ。*8。
これに対して著者らはこう応えている。
Re: A Bond Impersonator? Author reply
* John Trevithick, Professor
* Maurice Hirst
Dept.Biochemistry, Faculty of Medicine &Dentistry, University of Western Ontario
We will be examining the antioxidant activity of other martini mixes in the New Millennium. It seems we have a SMERSH agent in our student ranks who has misdirected us!! Rest assured that he or she will be exposed.
(引用元: http://www.bmj.com/content/319/7225/1600.full/reply#bmj_el_6020)
「我々は次のミレニアムには他のマティーニのミックスでも抗酸化活性の試験をやるつもりでいます。どうやら学生の中に私たちを陥れたスメルシの工作員が紛れ込んでいたようです!! 彼(女)の企みは暴かれますのでご安心下さい。」
> な なんだってー!! <
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再調査の結果
その後、著者らは再調査の結果を発表した*9。
要約すると、ジンの代わりにウォッカを用いた場合でもstirしたものよりshakeしたもので、過酸化水素が効率的に除去されていたようだが、その効果はいずれの方法でもジンの場合と比べて低くかった。この結果を受けて著者らは” In the light of these findings we suggest that 007 should re-examine his choice of martinis to optimize their antioxidant content, whenever circumstances permit him to do so. “(これらの知見から考えて、007のマティーニのチョイスは、状況が許す場合には、抗酸化作用を最大化するために再考されるべきだと我々は示唆する。)と結論づけている。
*1:ただし、正確に言うと実際に実験に用いられたのは水ではなく緩衝液である。
*2:E. Davenas, et al. , Nature 333, 816 (1988).
*3:厳密に言えば、そういう”水”を染み込ませた後、ほとんど乾燥させた砂糖玉を患者に与えることが多い。
*4:J. Maddox, J. Randi, W. W. Stewart, Nature 334, 287 (1988).
*5:S. J. Hirst, N. A. Hayes, J. Burridge, F. L. Pearce, J. C. Foreman, Nature 366, 525 (1993).
*6:http://improbable.com/ig/winners/
*7:British Medical Journalから正式名称がBMJに変わったようだ。どうやらBMJではクリスマス前にこの手のネタ論文を載せるのが恒例行事になっているらしい。
*8:http://www.geocities.jp/kyouya1/vodkamartini.html
*9:http://www.bmj.com/content/319/7225/1600.full/reply#bmj_el_18207
- Not so open-minded that our brains drop out. - [ネタ][ホメオパシー] ホメオパシーとジェームズ・ボンドと抗酸化作用 (via darylfranz)