音楽は耳や鼓膜のために書かれたのではない
だいぶん私の険悪な気分があらわになってきたが、さよう、私はステレオ装置など音楽の本質とはなんの関係もないと思っている。
音楽を聴く上になによりも必要なのは、謙虚で素直な心、美しく、純なるものをもとめる心、音楽によって慰められたいという、魂の底からの願いであって、再生音のよしあしなど末の末の話だ。
勿論、音はいいに越したことはない。淫することが不幸だといってるのです。ステレオ・マニアというのは、まず九割九分、音に淫した連中である。何サイクル以上の音が聞えたとか聞えなかったとか、そんなことどうでもいいことじゃないか。彼らを音楽愛好家だと私は思わない。ただの電気気違いだよ、連中は。
レコード・マニア、ステレオ・マニアというのは、おもんばかるに、音楽が好きな人が、たまたま楽譜も読めず、楽器もいじれない、そういうコンプレックスを再生装置マニアになることによって解消しようとしている姿なのではないかと私は思う。
それだったらこれは空しいことだよ。どこまでいったって原音通りの再生なんていうのはありっこないんだから。
そんなことより、どうして心を空しくして楽器を習い始めないのか。プロになるわけじゃないんだ。今からでも決して遅くはないよ。楽器を弾くということは愉しいことだよ。楽器は決して人を裏切らない。生涯の友だちだよ。そうして、楽器を弾くということは、楽譜を通して、バッハやモーツァルトと直接つきあうということなんだよ。楽器を弾く人にたずねてごらん。例外なく彼らはこういうだろう。
「ぼくはレコードがすりきれてようが、録音が悪かろうが、あんまり気にしないほうでね。想像でおぎなって聴いちゃうから、どんなものでも愉しめるなあ」
音楽というのは耳や鼓膜のために書かれたのではない。心に向かって書かれたのだということを今一度思い出していただきたいと思うのです。
- 伊丹十三『女たちよ!』文春文庫、1975年 (via shbttsy74)