18~19歳の頃の話。
高校卒業した後、専門学校に行くまで、1年間ブラブラと何もせずに過ごしていた。
自分が何をやりたいのかよくわかってなかったし、親父は僕のことを色々と言うので、とりあえずバイトをはじめた。地元の電器屋で、中古のゲームとCDも扱っているところだった。
そこにMさん、という女の人がいた。
同じくバイトで、23歳くらいだったと思う。元ヤンっぽく、派手な顔立ちで、化粧が濃かった。いつもブリーチした髪をいじっているし、大口を開けてガハハと笑うので、当時の僕は下品だな、と心の中でバカにしていた。だが、バイト先では一番「女」な人だった。ノースリーブの服をよく着ていて、脇の下から黒いブラジャーがチラッと見える。伝わるかわからないが、当時は「黒いブラジャー=淫乱」みたいなイメージがあったのだ。バイト仲間でコソコソ、「今日、何色?」と聞き合うのが習慣だった。
バイトをはじめて数ヶ月経ったある時、休憩時間で事務所に入った。事務所はお店のはなれにある掘建て小屋みたいなところだ。外の自販機で缶コーヒーを買い、タバコとライターをポケットから取り出しながら事務所に入ると、Mさんが一人で本を読んでいた。「あれ、今日バイトですか?」「ううん、ちょっと用事があって。渋谷くんは休憩?」「はい」。よく考えるとMさんと2人で話すのは初めてで、そう思うと緊張してくる。「何読んでるんですか」と聞くと、Mさんは黙って書店のカバーを外して本の表紙を見せてくれた。「あ、『ライ麦畑』…」「読んだ?」「いえ。面白いですか?」「うーん、わかんない」。僕はMさんのことをバカだと思っていたので、サリンジャー読むんだ、と意外に思った。でも「わかんない」はねえよな、とちょっと安心した。「渋谷くんは本好きそうだよね」「え…、いや、どうかな」「何読むの?」。ちょうどその時、ヘッセの何かの文庫本を読んでたので、「ヘッセです」というと、Mさんはふっ、と笑った。どういう笑いだったかはわからない。でも、ヘッセと言ったら笑われた、しかもバカだと思ってたMさんに…、と思うとすごく焦った。
「彼氏とかいるんですか」「えーっ!?」。Mさんは突然大声を出す。これ以上、本の話をするのが恥ずかしかったので話を反らしたのだが、唐突すぎたのかもしれない。「なんで?」「いや別に」。Mさんはタバコをくわえて火をつける。その仕草もオヤジっぽくて、下品だった。「いないよー。渋谷くんは彼女いるの?」ふはーっと煙を吐き出して僕に訊いてきた。「彼女いないです」「え、童貞?」。ホントに下品な人だった。
「いやー、童貞っす」。ふざけた感じで返すのが、チンケだけど、僕のプライドだったんだろうなと今では思う。童貞が「童貞?」と訊かれた時、そうだと答えるのは相当の覚悟がいるのだ。プライドを変にこじらせてるから童貞なのだ。このまま永遠に女の体を知らないかもしれないという不安とコンプレックスが、プライドをますます歪に固めていく。早々に童貞を捨てたヤツにはわからないだろう。ましてや女にはわかるまい。いや、処女の人も同じなのか? とにかく、こっちにとっては超デリケートな問題だ。それを、何も考えずにズケズケと訊いてくるMさんの次の言葉を、僕は怖れた。だが、次の言葉は想像を越えていた。
「今度セックスしようか」
Mさんはあっけらかんと言った。無表情というか、ぼんやりした目で僕を見た。僕はすごく驚いたし、興奮した。「黒ブラ=淫乱」説は本当だったんだと思った。鈴木保奈美が言うならドラマだが、元ヤンのMさんが言うと完全に劇画系エロマンガだ。
「あ、あ、お、お願いしまっす!」と、僕はまたふざけた感じで答えた。そこもプライドが邪魔した。とはいえ、結局これだ。どんなにMさんを心の中でバカにしてようと、エロマンガ的な展開が起きただけで完全にコロッと落ちてしまうのだ。どんなに理論武装しようと、サブカル知識をつけてようと、セックスしてるヤツの方がはるかに偉いのだ。でもそういうヤツは大嫌いでもある。だからどうしていいかわからず、時が過ぎてゆく。ねじれまくった価値観で、10代の男は生きている。20代も。
Mさんは僕の言葉に答えずに、また黙ってタバコを吸った。
その後、僕はもう1本タバコを吸った。会話はもうなくて、秒針の音だけが響いていた。僕が「そろそろ、仕事戻ります」とエプロンをつけて、事務所を出ようとすると、Mさんがドアの前で近づいてきた。
Mさんは黙って僕を見つめている。ものすごくドキドキした。
しばらくして、「トイレ行く?」とMさんは訊いた。
今なら、それがどういう意味だったのか、何となくわかる。でも、当時の僕にはその意味がまったくわからなかった。いや、本当はどこかではわかってたのかもしれない。でも、僕は
「え、大丈夫です」と答えてしまった。Mさんはまた、ふっと笑って、「じゃー、働けー!」と、僕の背中をドンと押した。
バイトが終わって、若干急いで事務所に入ると、もうMさんは帰っていた。なんだかガッカリした。
それ以降、Mさんは僕と仕事以外のことで話すことはなかったし、少ししてMさんは突然辞めてしまった。後で知ったが、バイト先の副店長と不倫をしていたようだ。副店長はインテリっぽい人だったので、サリンジャーはその影響かもしれないな、と思った。
人生が、フローチャートのようにその場で二つの選択を繰り返して、大きくズレていくものだとしたら、僕の選択次第で、あの日に童貞を捨てられたのかもしれない。
僕はまた一人で、不安に思いながら、音楽聴いたり本読んだりマンガ読んだりして過ごした。『ライ麦畑』もそのときに読んだ。大人になれたのはその1年後だった。本当に好きな子だったので良かったが、確実に音楽や本やマンガとの関係性は変わってしまった。
十数年経って、新宿のアルタ前の交差点でMさんを偶然見かけた。相変わらず派手なメイクで毛皮のコートを着ていたが、表情がすごく辛そうなのが気になった。横を通り過ぎるとき、Mさんは僕に気付かない。僕も声をかけずに通り過ぎる。そのまま僕は、これから売り出すというアイドルの取材をした。キラキラとした夢を語ってくれたが、しばらくしてそのアイドルは引退してしまった。
サリンジャーの訃報をツイッターで知ったとき、Mさんのことと、Mさんが事務所で見せてくれた、クリーム色とブルーの表紙を思い出した。
「フラニーとゾーイー」が好きでした。そして、あなたに贈る言葉がこんなプチ・エロ話で申し訳ない。R.I.P.
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2010-02-03 (via gkojay) (via wonderthinkanswer) (via iyoupapa) (via petapeta)