- Twitter / higetch (via atasinti)
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カフェイン入り清涼飲料水大量摂取、20代男性が中毒死…眠気覚ましで常用 米では十数例報告 (1/3ページ) - 産経WEST
九州地方で今年、眠気覚ましをうたうカフェイン入り清涼飲料水を頻繁に飲んでいた20代男性がカフェイン中毒で死亡していたことが、福岡大法医学教室の分析で21日までに分かった。胃の内容物にはカフェイン錠剤の可能性がある破片も混じっており、錠剤がどの程度死亡に関与したかは不明だが、同教室は飲料の大量摂取が原因とみている。状況から自殺目的で一時的に大量服用したのではないという。
おれは「眠気覚ましをうたうカフェイン入り清涼飲料」というのには縁がない。おそらく翼を授けてくれるやつだろうが(いや、「みんみんなんとか」かもしれない)、あれは高すぎて手が出ない。
しかし、胃の内容物にある「カフェイン錠剤」というものにはピンとくるものがある。具体名を出してしまえばエスタロンモカ錠じゃないかと思う。おれはエスタロンモカ錠を飲み過ぎて死にそうになったことがある。
……日記検索中。
d.hatena.ne.jp
一度だけ薬を飲み過ぎて死にかけたのは、薬局で売っているカフェイン錠剤を目覚ましのためにたくさん飲んだときくらいだ。「たかが薬局で売っているカフェイン」と侮っていた。あれには気をつけたほうがいい。
このくらいしか書いていない。まあ、すすんで恥を晒しているおれとはいえ、自分の命に関わるようなことについてはさすがに控えるか。
あのときは……いったい何年くらい前だろうか。ひとつ言えるのは、自分が睡眠時無呼吸症候群だと自覚しておらず、診断も、治療も受ける前のことだった。強烈な眠気に襲われたおれは、用量以上の錠剤をインスタント・コーヒーで流し込んだのだ。その結果、まわりの時間がゆっくりと流れてるんじゃないかと思えるほど脳が高速回転し、まったくハイな状態で仕事をやっつけたのだった。
が、地獄だったのは帰り道のこと。一呼吸ごとに頭は白くなって飛びそうになるし、心臓の方が経験したことのないリズムで脈動する。そうだ、その症状が出たのが会社でだったから、車を持ってる人に送ってもらったのだった。だから、自転車じゃなかった。たしかそうだ。それでもうおれは本当に死ぬんじゃないかと思った。希死念慮とかそういうの抜きで「あれ、死ぬ?」みたいな気分になったのだ。
そして抑制力の強いおれは、それ以来カフェインの錠剤を飲むときは、用量を守るようになった。まあ睡眠時無呼吸症候群の治療(というかスリープスプリント)で脳みそが落ちるような眠気を味わうこともなくなったのだけれど。
だからなんだ、カフェインは死ねると聞いて、おれは「やっぱりそうか」と思ったのだ。とはいえ、楽に死ねそうもないのを身をもって知っているので、カフェインで死ぬのはきつかろうと思う。でも、日々の労働で、睡眠時間で、やむなくカフェインに頼って死ぬやつもいる。この世は地獄だ、労働の地獄だ。もっとみんなが楽しいものを吸って飲んで食べて生きていく世というのは到来しないものだろうか?
というのも、僕はいままでスマホは洗濯機のような存在だと思っていたのです。
ガラケー → スマホ の移行は、
洗濯板 → 洗濯機 の進化くらい明らかなもので、
「え!?みんなが洗濯機使ってるのに、まだ洗濯板で洗ってるの!?ありえない!はやく洗濯機買いましょう!」
というノリで接客をしてましたし、世の中を見ていました。
多分世の中的にもこの感覚で、
「電車の中でガラケー出すの恥ずかしい」派のひとはまさしくこれでしょう。
なので、「いや、洗濯板のほうが慣れてるし!」とか「洗濯板の方が汚れがよく落ちる!」
というのは言い訳にしかならなかったです。
でも冷静にお客様ひとりひとりを観察していると見えてきたのですが。
スマホは原チャリみたいなものだな、と思うようになってきたのです。
つまり
ガラケー → スマホ は、
自転車 → 原チャリ の進化みたいなものだと気づいたのです。
「えっ!?原チャリあるのに、まだ自転車乗ってるの!?」
と言われても、
「いや、近所だし。」
「ガソリン代かかんないし。」
「免許ないし。」
「安全だし。」「管理楽だし。」「安いし。」「ヘルメットいらないし」
これらは言い訳ではなく、本当に正当な理由です。
開高健の言葉を思い出す。
「一旦知ってしまえば、知らなかった時には戻れない。
本にせよ、スーツにせよ、シガーにせよ、酒にせよ、
別に知らなくても生きてはいける。
でも知ってしまえば、それなしの人生など耐え難くなる。
つまり知識や経験は人生に悲しみも もたらす。
より多くを、より良きものを、よりスリリングなことを
知ってしまったがために、当たり前の日常に感動できなくなる。
それでも、知らない平穏よりも知る悲しみのある人生の方が高級だ。」
反原発運動の失敗
原発・放射線は本来は科学的事実に基づいた社会的議論を行うべき問題であることは自明だろう。だというのに、反原発も原発推進運動も、科学よりも立場を重視し、あまりにも為にする言論を多用し過ぎたように見える。この不毛な争いのあとに残ったのは人々の不信とニヒリズムという荒れ地である。
しかしそれにしても脱被曝という放射線被曝の危険性を過剰なまでに唱える一部の反原発運動が流言・デマに頼ったことは目に余った。運動が自分たちの望むことを言ってくれる偽りの「真実を語る人」たちに頼ることで迷走をはじめた。そして本来力になったはずの良心的な科学者を御用学者として排斥する運動まではじめたときに、正しい科学知識による言論の修正の可能性は閉ざされた。
さらに脱被曝系の反原発運動は、反ワクチン運動など非科学的な態度で科学に基づく医学を否定する反近代医学に接近し、偽りの左翼の仮面をかぶりつつも反科学・反近代の姿勢に傾斜していった。
問題はそれだけではなかろう。脱被曝系反原発運動は非科学的根拠で避難を叫んでも現在福島にいる住民を具体的に助ける努力はしなかった。それどころか差別意識を隠さない葬式デモを許した。偽りの「真実を語る人」たちが煽った瓦礫受け入れ反対運動という、科学的根拠がないだけではなく、穢れ意識に基づいた差別を助長する運動に肩入れした。党派をこえた近代的な連帯をする努力もしなければ、困ったときには助けあうという日本の伝統的な形での連帯の意識すらなかった。
そして、脱被曝系反原発運動を支持するひとのなかに、自分さえ逃げ切ればいいという現在の日本の中流階級に多々見られるエゴイズムが垣間見えたときに、反原発運動はまとめて幅広い支持を失ったのではないか。この反原発運動の失敗がゆえに日本社会は原発再稼働へ、政治的にはより右へと舵を切ることになったのではないか。
”STAP論文は瑕疵だらけの論文であった。その欠陥は論文の内容の緻密な分析により明らかにされた。しかし、単なる矛盾や欠損だけでは論文は崩壊しない。STAP論文が取り下げになったのは、研究論文としての一体性を保てなくなるまで欠陥が見つかったからである。これだけで関係者にとって、研究者としては自分のことを許しがたい、自分の前で自分に対して屈辱的な状況であったと想像する。
研究の一体性は一つ一つの論文の中で保つものでもあり、また研究者の人生を通じて保たなければならないものである。だから研究人生の一体性というものは、研究者にとってかけがえのない蓄積であり、特に先端研究に挑戦する者にとっては、日々それを失う危険に晒されながら必死でようやく確保するものなのである。そして、自分の研究人生の一体性が失われることがあったとしたら、それはすでに研究者としての生命を失う危機ーそれはある種の誠実な人々にとっては肉体的な生命を失う危機と同じーであるといってよい。
論文作成はいうなれば常に新しいチームを編成して、その中で毎度新しい競技をするようなものである。たまたまあるチーム編成で行った競技が欠陥だらけであったからといって、その監督の全人生を否定するような社会の姿勢は正しいものだろうか。
2014年春の笹井教授の記者会見、さらには同夏のNHKによる不当と言える特集番組は、科学者としての笹井教授について幾ばくなりとも敬意を払ったか。否である。また我々科学者は、たまたまのSTAP論文にあった欠陥の原因を謎解きするあいだに、笹井教授ひいては科学者社会全体にしのびよっていた大きな危機に自覚的であったか。否である。そしてSTAP事件をニュースの受け手である日本社会のすべての人々は、科学論文についての報道が科学についてではなく、STAP論文作成チームの人間ドラマ作成に勤しんでいるという堕落して恥ずべき状況を批判したか。否である。この中の誰が、笹井教授の研究人生における経験と専門性について積極的な評価を行ったか。否である。こうして我々が至らないからこそ、STAP事件は悲劇で終わったのではないか。
”ただ、先生が最大の悲劇だとお話されたのが本能寺の変。 ディレクターと脚本家がどうしても信長に鉄砲持たせて戦わせたいと… 鉄砲で戦ったなんてそんな記述ないよと先生は話したそうですが、 「記述がないということは無いとハッキリ書かれてないですから、可能性があるということですよね!」と言われて渋々承諾。 (確かにこの時代、お寺も要塞化したり武器弾薬貯蔵するところもあったんですが…)
なんでそんなに信長に鉄砲持たせるのにこだわるんですか?と聞くと
信長役が舘ひろしだったそうです。。。
”